弐の巻 | ||||||||||||
羽子板市、でも正式名称は“歳の市” そもそも江戸の年の瀬に立つ市を「歳の市」と言い、来る年の備えをするために、しめ飾り・飾り物・破魔矢・破魔弓、はたまた正月を迎えるにあたっての日用品を購入したのが市の始まりです。 その師走の年の暮れ、18日と言えば浅草観音様のご縁日であり無事に過ごした1年を感謝しながら手を合わせる“納めの観音”の日でもあります。 ●そもそも、羽子板の歴史は古く、宮中や神社などで魔除けなどの神事に使われていました。 羽子板とは胡鬼(こき)板とも言われていた歴史があり、羽子・胡鬼とは“トンボ”と言う意味でその板で羽根突きの羽根(無患子[むくろじ]の実の種に鳥の羽を付けたものをトンボに見立てる)で疾病の元である蚊、蝿等を追い払う意味で羽根突きをする事が厄払いであると言われていました。 その無患子の実の皮は水に溶けて泡を出すサポニンを含んでおり、昔は石鹸の代用に使われ、害を寄せ付けないと言う意味もあったようです。 つまり、無病息災のお守り的な要素を持つ飾りもので、縁起がよく年越しや新年に持ってこいのモノなのです。 女の子が生まれ、その初正月に羽子板を贈る習わしは、その魔除けや厄払いの意味もあり、女の子の持つ派手やかさや優雅さが相まって羽子板とマッチしたのではないでしょうか。 ●押し絵羽子板と絵柄 綿を布でくるんで、様々な立体的な形に絵柄を作り上げる、これが押し絵羽子板の手法で、江戸時代から続く文化でその頃の絵柄は、宝船、七福神、等の絵が主体でした。 江戸時代後期(文化文政期1804〜1829年)になると歌舞伎役者の芝居姿を写した羽子板が登場して人気を博しました。 その後、歌舞伎の人気発展と共に発達し、人気役者の姿や贔屓役者の姿を写した羽子板を争って買い求め大変な人気となりました。
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